吃音矯正の歴史

わが国初の吃音矯正所は「楽石社(らくせきしゃ)」といい、今はありません。 創立者:伊澤修二(いさわしゅうじ)先生(1851~1917)の息子さんの著書「伊澤修二」(1921)によれば、明治新政府から学術優秀であるということで、父・伊澤修二がアメリカの教育制度の視察に行きました。彼はアメリカに行って教育関係のことを調べたあと、電話機を発明した有名なグラハム・ベルのところに行きました。彼は電話機の発明で有名ですが、実は聴覚に障害がある人のための治療の先生でした。
 

伊澤先生は言語と聴覚は関連があり、そこで勉強して耳が聞こえないために喋れない聾唖(ろうあ)者のための教育をグラハム・ベルの講座の中でじっくりと勉強しました。わが国における障害児教育をアメリカに行き一番先に習った人がこの人でした。
   
伊澤先生が帰国され教育大学の教授になり、東京教育大学の学長にもなって引退されました。更に1903年には小石川の後楽園の一部を政府から払い下げてもらい「楽石社」という言語問題の教育機関をつくりました。英・米・独・仏・ブラジル語など外国語を十数個、次に聴覚障害者、耳が聞こえなく喋れない人、吃音矯正を入れました。
 
吃音矯正が入ったのは「末五郎」という彼の弟さんが大変な吃音だったそうです。グラハム・ベルのところで勉強しているとき、「帰ったら末五郎の吃音を治してやろう」と簡単に考えたのでしょう。6年間のアメリカ留学を終え1878年に日本に帰り弟さんに向かって「あー」っていう発声練習から始めたそうです。※末五郎は末っ子で多喜男の弟である。
 
その経験を通して吃音治療に到ったわけです。この教育機関で生徒を募集したところ、外国語教育では30~40人、聴覚障害者も同じ数で、吃音教室は全国から何百、何千という応募の便りが届きました。彼は先頭に立ち吃音教育を始めました。晩年は「視話法」による吃音矯正の社会事業に力を注いだと記録に残っています。徹底した言語矯正、呼吸に合わせて「あー」と発声する練習、口形練習、「おはぁよぉーございます。」 
  
当時、吃音矯正の先駆者として聾唖者の言語訓練法を吃音者に当てはめたという方法論に間違いがあったのでしょう。今日からみてあまりに治療法がなかった時代、学問的研究がない時代。いけないのは彼の没後、生徒さん達が全国各地で旗揚げして吃音矯正所を開き先生の物真似ではないといい募集をしたことや、「一週間で必ず治る」とか「30日で吃りが治る」という宣伝をして藁(ワラ)をもすがる思いの吃音者を騙した時代がありました。
             (2000.11.19言友会関東ブロック大会、吃音研究家:故梅田瑛氏講演の一部より)
 
善意の心で吃音矯正を体験者がボランティアで行われた時代がありましたが、多くは明治以来の伝統的な方法や自己流の方法で指導されていました。吃音治療は「虫歯を治しに歯医者に行くようなものではないこと」は吃音体験者なら充分理解できるのではないでしょうか!

 

近年、大都市では民間の吃音矯正所が出来、時間とお金をかけ通院・合宿して矯正に励んだ時代がありました。誰にも相談が出来ず一人で悩んでいた吃音者にとってはそれは「光」だったのかもしれません。そこでは共通の話題で共感しあえたことも幸せなことだと思いますが、吃音を治したいという切実な願いがかなえられることはなかった。情報の発達した今では吃音は必ず治せるという言葉は幻想のようになってしまいました。インターネット上では時どき信じさせようとするページが現れることがありますが当事者は「確かめること」が必要かと思います。